taiseinimanの日記

国家公務員総合職合格、名工大院生、INTP

人々の幸福のために

共同体の存在自体が、同調圧力の存在を肯定するものだし、そしてその同調圧力によって個人を尊重する気持ちや意識が社会の中から消え去っていくというのも理解できる。 しかし、個人は自由であり、個人の行動や言動を最大限尊重しなければならないという考えを社会を構成する人々に強制しようとすること自体が、社会の中に共同体を作っていることにほかならない。 自己言及すれば矛盾するという根本的な問題を我々は抱えている以上、共同体の存在を否定することはできない。 あなたはおそらく、個人の自由を最大限尊重しそしてそれを否定する人をなるべく排斥しようとするだろう。 それは私もそういう考えに近いのだが、それはなぜかと言えば、理由は簡単で、それが人々にとって幸せなことだと思うからである。 個人の自由をある意味で制限するような共同体を掲げる人たちも、日本人を苦しめるためにそれをしているわけではないはずである。 そして、彼らの言い分も非常に理解できることがある。 その当時いや現在でさえも日本は、資源が乏しく人的資源によってしか経済を回すことが出来ない国だから、個人に対してより多くの能力を必要とする。 それは、数学や国語の読解力などに留まらず勤勉さやルール・マナーを守る姿勢など、あらゆる能力を必要とし、そして日本人がそういった能力を持ち合わせていたからこそ、 これだけ豊かな国が築かれたのではないか。 批判されることの多い受験競争などは、そういう点では有益に作用しただろう。 つまり、結果的には日本に住んでいる個人にとって、少なくとも後世の人たちにとっては、逆説的に彼らを尊重したとも言えるのではないか? どちらも、個人を尊重していないということはできない。だからこそ、私はバランスを取ることが大事だと考える。 そして、個人の自由を履き違える人がいるということも問題である。個人の自由とは、他者を最大限尊重するべきだということであって、 自分さえ良ければ良いなどという考えではない。そして、そうやって自分やその周りだけの利益を追求し、社会や他者への尊重のない社会が、 最も人々を不幸にするものである。それこそが、共同体のない社会なのである。 残念なことに、個人の自由を唱えれば唱えるほど、その意味を履き違えて上記のような独善的な考えの人が多くなっていくというのまた事実である。