米国空軍の兵士

jp.reuters.com

sorkab.com

 

彼は、何の罪もないパレスチナの人々が無惨に殺されていくこと以上に、自分自身がその悪行に加担し、そしてその行いを続けざるを得ない立場に置かれていることに対して、罪の意識と責任を感じていたのだろうと思う。
彼なりの理屈では、任務であれ命令であれ自分がしたことは間違いでパレスチナの人々が受けた苦しみや痛みを考えれば、自分が焼身自殺でもしないと釣り合わないと考えていたのかもしれない。
戦争というものが、どれほど一部の権力者や資本家によって作り上げられてきたものか。多くの無関係な市民は戦争の犠牲になり、無関係な多くの青少年を戦争犯罪者に仕立て上げる。しかし、それでも金持ちの道楽である戦争が社会を維持するためには不可欠なものであり、他人を蹴落とす人間の攻撃性の現れでもあるから決して無くすことはできないとあなたは言うかもしれない。
だから、彼の行いは全く無駄死にで無意味な行いであると言うかもしれない。
それは、負けることが明らかにも関わらず敵艦に突っ込んで死んでいった
日本の特攻隊員を無駄死にだと言い放った戦後の左翼共にも言えることだが、利己的な人間だけが存在する社会に他者の尊重という意識は決して生まれてこない。社会の潤滑剤となっているのはいつも自己犠牲的人間である。
自己を犠牲にしその他を守ろうという他者の振る舞いを目の当たりにするからこそ、人間は利他的行動を自発的にできるようになる。だから、私は誤った情報をもとに作り上げられた間違った考えが実行された結果なのだとしても、彼が自分の命を犠牲にしたことを尊敬するべきであると思う。
高温の火に体中炙られながら直立不動の体制のまま一言ことも悲鳴を発さず平然といられる精神力、こんなことをできる生き物は人間以外は決していないだろう。
人間の本質はいつも精神から生まれてくる、決して物質ではない。

 


人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ねることと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
— パスカル、『パンセ』

 

 

人々の幸福のために

共同体の存在自体が、同調圧力の存在を肯定するものだし、そしてその同調圧力によって個人を尊重する気持ちや意識が社会の中から消え去っていくというのも理解できる。 しかし、個人は自由であり、個人の行動や言動を最大限尊重しなければならないという考えを社会を構成する人々に強制しようとすること自体が、社会の中に共同体を作っていることにほかならない。 自己言及すれば矛盾するという根本的な問題を我々は抱えている以上、共同体の存在を否定することはできない。 あなたはおそらく、個人の自由を最大限尊重しそしてそれを否定する人をなるべく排斥しようとするだろう。 それは私もそういう考えに近いのだが、それはなぜかと言えば、理由は簡単で、それが人々にとって幸せなことだと思うからである。 個人の自由をある意味で制限するような共同体を掲げる人たちも、日本人を苦しめるためにそれをしているわけではないはずである。 そして、彼らの言い分も非常に理解できることがある。 その当時いや現在でさえも日本は、資源が乏しく人的資源によってしか経済を回すことが出来ない国だから、個人に対してより多くの能力を必要とする。 それは、数学や国語の読解力などに留まらず勤勉さやルール・マナーを守る姿勢など、あらゆる能力を必要とし、そして日本人がそういった能力を持ち合わせていたからこそ、 これだけ豊かな国が築かれたのではないか。 批判されることの多い受験競争などは、そういう点では有益に作用しただろう。 つまり、結果的には日本に住んでいる個人にとって、少なくとも後世の人たちにとっては、逆説的に彼らを尊重したとも言えるのではないか? どちらも、個人を尊重していないということはできない。だからこそ、私はバランスを取ることが大事だと考える。 そして、個人の自由を履き違える人がいるということも問題である。個人の自由とは、他者を最大限尊重するべきだということであって、 自分さえ良ければ良いなどという考えではない。そして、そうやって自分やその周りだけの利益を追求し、社会や他者への尊重のない社会が、 最も人々を不幸にするものである。それこそが、共同体のない社会なのである。 残念なことに、個人の自由を唱えれば唱えるほど、その意味を履き違えて上記のような独善的な考えの人が多くなっていくというのまた事実である。

 

最後にこんな事を言うと批判されそうだが、そのような共同体のない社会に最も近いのは、今の中国である。 私は、日本をあのような国にさせたくはない。今の我々が良くても、我々の子孫が不幸になることは目に見えているのだから。

nikkei asia という新聞 ルーシー・ブラックマン事件

asia.nikkei.com

 

英語の勉強がてらに、nikkei asiaの上記の記事を読んだのだが、

あいも変わらず誤解を与えるような内容と、そしてなぜ今までにおいて、

レイプの要件に「力による行使」あるいは「ドラッグの使用」を証明する必要があったのか、

それに対する無理解というか表面的なことでしか物事を理解しない軽薄さに嫌になった。

誤解を与える内容としては、娘が外国でホステスとして働くことをほとんどの日本の父親は認めないと考えたとか、外国のホステスとして働いてた娘のかわりにプレスカンファレンスに現れるぐらいなら父親は死ぬだろうとかアホなこと書いてる。

前者は誰かが言ってた内容がそういったものかどうかはわからないという意味で出しただけであり、また後者は仮定法だから、別に事実であることを示す必要はないとか思っているのかもしれない。

しかし、そういう話題あるいは推測が出てくる事自体に対して根拠を示す必要がある。端的に言えば蓋然性を示す必要がある。こういうのを印象の操作という。

 

まあここはどうでもいい、彼らは日本を見下す材料を探しているに過ぎないから、

問題なのはレイプについてである。

レイプであると認めるためには、なぜ「力による行使」などが証明される必要があったのかということを本当に彼らはきちんと考えているのだろうか。

記事で日本はレイプ天国だといってるが、レイプしやすくするためにそういった条件が設けられているわけではない。

それは、一切の主観を排除しなければならないという裁判の原則の結果である。

例えば、あなたが包丁を持って、見知らぬ人の間の前に行き、その包丁をもった手を大きく上に挙げたとしよう。それを「ただこの人は、この高そうな包丁を私に見せびらかしたいのだな」とその見知らぬ人は考えることができるだろうか。

あるいは、その包丁をただ見せびらかしたいと思って見せたら、相手が攻撃してきたので正当防衛でそいつを刺しましたといって、それを誰が理解するのだろうか。

だから人間は他人に誤解を与える行動をしないように努力しなければならない。

確かに事実はあなたの通りなのかもしれない、しかしもしそれを認めたらほとんどの犯罪行為は微罪にしかなりえない、嘘をついているかどうかを確認するすべがないからだ。

それは違う、真実を見つけることができると豪語するのが法律家たちだが、

それが結果として犯罪者に免罪符を与えているということをまるで理解していない。

 

もちろん、犯罪者が罪を免れるからといって冤罪を増やしては意味がない、

ある意味で主観を一切排除するという裁判の原則自体が冤罪を作り出していると言われても、別におかしくはない。

だから我々は約束事を決めるのだ。人は主観的で不合理な行動をすれば不利益を被ることをわかっている、それにもかかわらずあなたはそういった行動をしたのだからそれによって真実とは遠い判決を受けたのだとしても、それは許容しなければならないという社会的な合意であり、それは社会を運営していく上で不可欠であるからだ。

あなたがレイプだと本当に思っていて、そしてそのために精神的に苦しんでいるということが事実なのだとしても、性行為に至るまでの間に客観的に見て性行為を拒絶していると言えるだけの根拠がないとレイプということはできないのである。

なぜなら、本当はレイプだと思っていなくて、しかし相手が憎いから嘘をついている場合と外形的に区別できないからである。

あなたが他人からみてどういうった行動をとればセックスを拒絶しているとわかるのだろうかと少しでも考え、そしてそれを証明するためにはいくつもの準備が必要であるとわかっていたなら、決して迂闊な行動は取れない。

セックスしたいと思えない相手となるべく関わらないとか、記憶が飛ぶまでお酒を飲まないとか、そういった行動がどうしても必要になるということである。

しかし、我々は法律だけで生きているわけではない、法律だけが人生を豊かにしているわけでもない。現実的には、そんな証明するための準備をすることなどできやしないというのもその通りだから、我々が不合理な行動は一切裁判から排除されるという原則を社会的に合意したように、どんな理由があるせよ誓約書などで性行為の同意を得ない限り、性行為をしたらレイプとみなすということを合意することは、それによって明らかに損害を受ける人達がいて、そしてそれに正当性があると言える場合を除いて、許容することは問題ないと私は考える。だから、レイプの条件が緩められたことに対して問題がないといいたいのではない。

日本は今まで、上記のようなある意味での厳格な罪刑法定主義を軽く見てきたということと釣り合わないということである。例えば、日本の飲酒、速度超過、信号無視の交通死亡事故の加害者に対する判決が極めて軽いということは、彼らが酒を飲んでいようが、200キロ速度超過していようが、信号無視していようが、危険運転をしたといえるだけの根拠を見つけられなかったという理由のためであるが、それも同様に結果だけを見て刑罰を決めるような法律に変えなければ、整合性が取れないということを言っているのである。

別に私はどっちでもいいと思っている、それどころか厳格な罪刑法定主義のほうが若干良いと考えている。いずれにせよ、我々は人を人が裁くなど原理的に不可能であるということを第一に認識し、そしてだからこそ社会的に合意することが大事なんだということを強く理解するべきである。

 

人間の尊厳を守るために。

最近、台湾有事が現実味を帯び始めている。

米中対立は決定的で、アメリカが台湾情勢に関してあいまいな態度を一貫して取ってきたことに対して、バイデン大統領はその見直しを進めているという。

また、麻生副総理は中国が台湾に侵攻すれば、日本は参戦するということを述べた。

日本が取るべき態度はなんだろうか?

戦争によって大勢の人間が死ぬことを決して日本人は望まないだろうから、

自衛隊の派遣に反対し物資などの支援のみを行うべきだと大勢の日本は言うだろう。

アメリカやオーストラリアで同様なアンケート調査をしたところ、半分以上が派兵に反対であったことからみても、アメリカ人やオーストラリア人も同様に思う。

そこで考えなければならないのは、中国の台湾侵攻の目的である。

一般的には、中国の台湾侵攻は元々中国の一部であった台湾を取り戻し、中国の統一を実現するということであるが、甚だ疑問である。

なぜなら、現に異民族である新疆ウイグル自治区を占領し、民族自決を否定しているからである。中国の真の狙いは、中国の統一ではなく原子力潜水艦を運用するための水深の深い海域を得ることではないだろうか?

しかしながら、台湾付近の海域はそこまで水深が深くないので、本当の目的は別にあると考える。

それは沖縄の併合である。

あるユダヤ人が戦後このようなことを述べた。

「ドイツ人は、目の前で不当に迫害されているユダヤ人をみても黙って見過ごした、

終戦間際になって、今度は同じ目をドイツ人が遭ったのである。」

第二次世界大戦前夜のイギリス・フランスの宥和政策によって、ナチスドイツが軍備を整える時間を与え、さらにポーランドに侵攻している間、無防備になったフランス・ドイツ国境戦線において満足に戦おうとさえしなかった。第一世界大戦での膨大な死傷者の見返りがあまりにも少なかったからである。

だから、我々が台湾有事をまるで他人事に見てはならないということだ。

目の前で隣国が、不当にも侵略され大勢の人間が殺されている状況を見て、

それを黙って見過ごすということがどれほど自分たちの首を絞めることにつながるか、それは歴史が証明している。

中国の覇権主義がこのまま続けば、私は対中戦争は避けられないと考える。

もちろん戦争によって大勢の人間が死ぬから絶対に避けなければならない。

それは、貧しくとも家族や友人と慎ましい生活をすることを望む平和を愛する人達まで巻き込んでしまうからである。

しかし、中国共産党一党独裁体制で言論を統制し現に異民族を弾圧しているから、

中国人の民意が反映されにくい。中国人は歴史的に見ても、外国との戦争を嫌い平和を愛する民族である。外国と戦争はせず冊封国とし独立を認めるやり方をみても明らかだ。

多くの中国人がどれだけ戦争を憎悪し平和を愛していたとしても、中国共産党一党独裁体制によって軍が動員されれば、中国当局の監視の目によって民間人は戦争に協力せざるを得ないようになるだろう。今のロシア人がプーチンの戦争に反対できないように。

次に、よく中国に攻められても戦わず降伏して中国人になるだの馬鹿なことを言っている言論人をよくみかける。

それは今に至るまでの先祖の努力や犠牲によって築かれた日本という国の破滅であり、

そして我々の子供や孫・子孫に一生中国人の奴隷として生きろと言っていること何ら変わらない。

なぜなら、中国との戦争は単なる二国間の戦争ではないからである。

一党独裁体制のもと言論と表現の自由を規制し、民族自決を否定している中国が、

平和を愛し国民が主権を持ち基本的人権が尊重され言論と表現の自由が約束された民主主義国家である日本を侵略するということであるからである。

確かに今の日本は駄目だと思うことは多いかもしれない、基本的人権の尊重だって全然守られていない、言論と表現の自由の規制も多い、日本の問題点はいくらでもある。

しかし、中国共産党とその指導者たちが、天安門事件を起こし大勢の優秀な学生を殺し、毛沢東主義によって農村を疲弊させ多くの中国人を餓死に追いやった事実を取ってみても、戦後から現在に至るまでの日本政府とそしてその指導者たちは、常に国民のためを思った行動をしてきたと言えるのではないだろうか?日本の厳しい食品安全基準で日本は何も考えないで食品を買えるが中国はそうではないし、国民皆保険制度によってどんな貧しい人でも医療を受けることができる。何事も相対的な観点が必要である。

そして本当に平和を愛し、自由を望むからこそ命をかけてもやらなければならないことがあると私は思う。

太平洋戦争当時の日本の軍上層部どれだけ無策無能を露呈させても、一端の兵士はただ祖国や家族を守るために戦ったに過ぎない。自らの命を犠牲にして散っていた神風特別攻撃隊員を非難するのは簡単だが、彼らが命を持って示したのは日本の軍国主義ではない。

自己犠牲が、人間の尊厳を生み出すということである。

他人を守るために自らを犠牲にする精神が、逆説的に人間の尊厳を生み出したのである。

利己的な人間しかいない社会には、決して人間の尊厳は生まれない。

100人が100人の利己的な欲求によって動く社会には、他人を尊重する意識さえなく争いや醜い争いの絶えない社会になる。

戦後、日本人は死に物狂いで働いた。戦争で荒廃した国にいながら、大勢の親族や家族を失いながらだ。

それが日本の高度経済成長を支えたのは言うまでもない。ドイツも同様である。

ではそれはなぜか、自ら進んで利他的に動く大勢の人間を目の当たりにしたからである。

自分たちだけ、生き残り、、そして自分たちのために死んでいった大勢の人間を目の当たりにして、

初めて人は他者や社会、また子どもたち、孫、子孫のために動こうとする意欲が心の底から湧き出てくるものだからである。

だから、特攻隊員は全く無駄ではない、それどころか今日に至るまで多くの人間に感動を与え、それが他人を尊重することの意味と、そして人の尊厳を理解する助けとなっている。

現代の日本人が、もし侵略者に対して一切の抵抗をしないで利己的な行動に終始し、万が一にも占領されるようなことになれば、日本人の尊厳は失われ、我々の子孫は何世代にもわたって苦渋をなめることになるだろう。

 

最後に、私は何よりも基本的人権の尊重と表現と言論の自由を尊重するから、

それを守るために、また自己犠牲的精神が人間の尊厳を生み出すことをわかっているから、不当にも他国が日本に侵略してくれば、戦うつもりである。

それが先の大戦でみんなのために死んでいった、いやみんなを守るために死んでいった我々の先祖に対してできるせめてもの恩返しだろう。

我々は決して、人間の尊厳を失ってはならない。

 

最後に、特攻隊員が死ぬ前に残した言葉を載せておこうと思います。

 

Cited from wills of Kamikaze soldiers.

“As an engagement partner of yours, as a man that’ll soon perish, I have to state one thing before I go. I will always wish for your happiness. Do not be tied to the past. You do not live in the past. Forget the past with courage, and live your life with vitality. You will live every single moment of your life in the real world. Unfortunately, I do not exist in the real world anymore. I want to see you, talk with you. Unbearably.”

“I might never be able to see mother’s face again. Mother, please show me your face for one last time. However, I do not want to leave any keepsakes. Because decades after my death, my keepsake will make mother cry. Mother, the day I leave Kouriyama, I will fly over our house. That will be my final farewell.”