MMT理論とケインズ理論の類似性

我々が考えなければならないのは、人というのはものすごく思い込みの生き物だということである。

我々は、お金そのものに固執しお金が増えれば裕福になったと誤解する。

この勘違いをする人が多すぎる。

豊かさというのは、我々の労働に対する対価によって決まる。

対価というのは、受け取るモノ・サービスなどのことである。

例えば、今まで10分間靴磨きをしたらリンゴ1個受け取れるとしよう。

ここで対価が増えるというのは、このリンゴが2個,3個,...となることである。

しかし,リンゴが増える要因というのはいくつもある。

例えば、労働者の労働効率が上がって10分間にできる靴磨きの回数が増えたからかもしれないし、この労働者が愛嬌たっぷりでそこを評価されて増えたのかもしれないし、

国全体の所得が向上して同じ労働なのに受け取れる対価が増えたということもありうる。

しかし、国でみたときには、対価が増える要因は労働者の労働効率がほとんどであるように思う。

話を戻して、所得が増えることと豊かさは無関係であるとはどういうことか述べる。

今,為替レートR(ドル/円とする)のときに日本国民の総資産(円)がNであるときを考えよう.

ドル換算は当然NRであるが、ここに国がYだけ円をさらに発行し流通させたとすると、

ドル換算は(N+Y)Rと思うかもしれないが、そのようになることはほぼない。

なぜなら詳細を省くが、国は銀行から借りているお金(国債)の返済にそのお金を充てているからである。

つまり、実質的に国は対価を得るための労働を何も行わずに対価だけを得ている。

※ただし、国債は何に使われるのかというと国民に使われるのであり、対価労働を行っているとみなしうる。ただしそこについては下記で述べる。

そしてそのような存在が、

労働力は有限であるから全く対価を得るための労働などを行っていない人が、

お金を無尽蔵(あるいは大規模)に使う(対価を受け取る)ことで、

対価を得るための労働を行った人が受け取れる対価が減ることによって、

実質的に貧しくなる。

しかし、一方ケインズ理論をもとにしたニューディール政策などが成功していることからわかるように、使われていない労働力を使う場合は別である。

近似的に,ドル換算値は{NR/(N+Y)}(N+Y) = NRーつまり変わらないはずである。

ドル換算値は同じなのに、流通する円通貨の量が増えるということは、1円あたりのドルが小さくなって、人々の持っている預金が目減りあるいは価値が下がるということになる。

すなわち、何をいっているかー国がお金をいくら刷っても、国民の預金・所得が目減りするだけで、国が国民から奪った分だけお金を無尽蔵に使えるだけである。

したがって、お金をいっぱい刷ったから国民が豊かになるわけではない。

 

日本の経済をどう回していくべきか。

あくまで定性的な考察であって、定量的に見ると正しくなかったり漠然としているかもしれない。

民主党政権交代以来自民党は一貫して円安を誘導してきた。

円安によって伸びる輸出額が円安によって伸びる輸入額よりも大きいということなのだろう。実際そのような見解を発表している。

私は国の円安誘導を決して批判しないし、実際そうなのだろうと思う。

しかし、2つの問題点がある。

まず、第一に円安誘導は諸外国から批判される。

第二に、円安で恩恵を受けるのは輸出企業であって原材料の高騰の打撃を受ける

輸入企業や内需企業はむしろ不利益を被る。

したがって、倒産が増えたりアンバランスさを増大させる。

したがって、もし円安を誘導するならそれによって被害を被る内需企業や国民に対して、何かしらの補助金を出さなければならない。

それを含めてなお円安のほうが利益があるとならないなら円安はしないほうがいい。

いずれにせよ、円安誘導というのは対処療法であって、長期的な成長は見込めない。

むしろ、輸出企業の経営を体たらくにしてしまう可能性がある。

自民党は常に、対処療法な金融対策によってのみ経済成長させようとしているように思える。

アメリカや中国のように、なぜイノベーションの促進と労働生産性の向上による方法を模索しまた実行することが少ないのか。

それが唯一の中長期的な経済成長の方法であるのにもかかわらずだ。

もう一つ、トリクルダウン理論は半分間違い半分正しい。

トリクルダウン理論とはほとんど格差拡大政策であって、

どのくらいの格差が最も人々の労働を促すかという点で、

現在の日本の格差が最適解よりも小さいならばという意味で正しい。

経済学についてよく知らないが、知らなくとも日本の特に1億も超える人口を抱える国全体で見たときに、格差の大きさと人々の労働意欲に法則性が存在しないはずがない。

マクロで見れば必ず判断できることである。

我々が乱流の微小流体や熱分子の不規則な運動をそれ一つ一つで法則性を見出す事ができなくとも、その系全体でみたとき法則性が存在しているように、一人ひとりの人間が自由な選択と行動をできうるまたそうしていたとしても、人間の集まり全体で見たときに法則性は必ず存在する。

このようにしてみると、まず日本は経済学部を理系に編入したほうがいいように思う。