nikkei asia という新聞 ルーシー・ブラックマン事件

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英語の勉強がてらに、nikkei asiaの上記の記事を読んだのだが、

あいも変わらず誤解を与えるような内容と、そしてなぜ今までにおいて、

レイプの要件に「力による行使」あるいは「ドラッグの使用」を証明する必要があったのか、

それに対する無理解というか表面的なことでしか物事を理解しない軽薄さに嫌になった。

誤解を与える内容としては、娘が外国でホステスとして働くことをほとんどの日本の父親は認めないと考えたとか、外国のホステスとして働いてた娘のかわりにプレスカンファレンスに現れるぐらいなら父親は死ぬだろうとかアホなこと書いてる。

前者は誰かが言ってた内容がそういったものかどうかはわからないという意味で出しただけであり、また後者は仮定法だから、別に事実であることを示す必要はないとか思っているのかもしれない。

しかし、そういう話題あるいは推測が出てくる事自体に対して根拠を示す必要がある。端的に言えば蓋然性を示す必要がある。こういうのを印象の操作という。

 

まあここはどうでもいい、彼らは日本を見下す材料を探しているに過ぎないから、

問題なのはレイプについてである。

レイプであると認めるためには、なぜ「力による行使」などが証明される必要があったのかということを本当に彼らはきちんと考えているのだろうか。

記事で日本はレイプ天国だといってるが、レイプしやすくするためにそういった条件が設けられているわけではない。

それは、一切の主観を排除しなければならないという裁判の原則の結果である。

例えば、あなたが包丁を持って、見知らぬ人の間の前に行き、その包丁をもった手を大きく上に挙げたとしよう。それを「ただこの人は、この高そうな包丁を私に見せびらかしたいのだな」とその見知らぬ人は考えることができるだろうか。

あるいは、その包丁をただ見せびらかしたいと思って見せたら、相手が攻撃してきたので正当防衛でそいつを刺しましたといって、それを誰が理解するのだろうか。

だから人間は他人に誤解を与える行動をしないように努力しなければならない。

確かに事実はあなたの通りなのかもしれない、しかしもしそれを認めたらほとんどの犯罪行為は微罪にしかなりえない、嘘をついているかどうかを確認するすべがないからだ。

それは違う、真実を見つけることができると豪語するのが法律家たちだが、

それが結果として犯罪者に免罪符を与えているということをまるで理解していない。

 

もちろん、犯罪者が罪を免れるからといって冤罪を増やしては意味がない、

ある意味で主観を一切排除するという裁判の原則自体が冤罪を作り出していると言われても、別におかしくはない。

だから我々は約束事を決めるのだ。人は主観的で不合理な行動をすれば不利益を被ることをわかっている、それにもかかわらずあなたはそういった行動をしたのだからそれによって真実とは遠い判決を受けたのだとしても、それは許容しなければならないという社会的な合意であり、それは社会を運営していく上で不可欠であるからだ。

あなたがレイプだと本当に思っていて、そしてそのために精神的に苦しんでいるということが事実なのだとしても、性行為に至るまでの間に客観的に見て性行為を拒絶していると言えるだけの根拠がないとレイプということはできないのである。

なぜなら、本当はレイプだと思っていなくて、しかし相手が憎いから嘘をついている場合と外形的に区別できないからである。

あなたが他人からみてどういうった行動をとればセックスを拒絶しているとわかるのだろうかと少しでも考え、そしてそれを証明するためにはいくつもの準備が必要であるとわかっていたなら、決して迂闊な行動は取れない。

セックスしたいと思えない相手となるべく関わらないとか、記憶が飛ぶまでお酒を飲まないとか、そういった行動がどうしても必要になるということである。

しかし、我々は法律だけで生きているわけではない、法律だけが人生を豊かにしているわけでもない。現実的には、そんな証明するための準備をすることなどできやしないというのもその通りだから、我々が不合理な行動は一切裁判から排除されるという原則を社会的に合意したように、どんな理由があるせよ誓約書などで性行為の同意を得ない限り、性行為をしたらレイプとみなすということを合意することは、それによって明らかに損害を受ける人達がいて、そしてそれに正当性があると言える場合を除いて、許容することは問題ないと私は考える。だから、レイプの条件が緩められたことに対して問題がないといいたいのではない。

日本は今まで、上記のようなある意味での厳格な罪刑法定主義を軽く見てきたということと釣り合わないということである。例えば、日本の飲酒、速度超過、信号無視の交通死亡事故の加害者に対する判決が極めて軽いということは、彼らが酒を飲んでいようが、200キロ速度超過していようが、信号無視していようが、危険運転をしたといえるだけの根拠を見つけられなかったという理由のためであるが、それも同様に結果だけを見て刑罰を決めるような法律に変えなければ、整合性が取れないということを言っているのである。

別に私はどっちでもいいと思っている、それどころか厳格な罪刑法定主義のほうが若干良いと考えている。いずれにせよ、我々は人を人が裁くなど原理的に不可能であるということを第一に認識し、そしてだからこそ社会的に合意することが大事なんだということを強く理解するべきである。